[掲示板: ミュージカル一般 -- 時刻: 2024/11/25(22:34)]
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2千円の当日B席はお気楽です。気候がいいときは、好きな公演ならなんどでも、という感じ。しかし、補助席は千鳥になっていなく、前の人が思い切り重なるので、ご注意を。
雪組 宝塚大劇場
10月10日→当日B席
10月12日→2階7列23 (DVD録画日)
Musical Fantastique
『堕天使の涙』〜Lucifer〜
作・演出/植田景子
<解説>
20世紀初頭のパリ。デカダンスと背徳の香りに満ち、文化の爛熟期を迎えたその街は、光の都ヴィル・リュミエールと呼ばれていた。夢と欲望の交錯する街・・・・。快楽と刺激を求める人々は、東洋の妖姫マハ・タリの官能的な舞に酔い、バレエ・リュスのニジンスキーの超人的な踊りとエキゾティシズムに熱狂していた。
そして今後、仮装舞踏会で有名なミュザールの夜会では、呼び物のアトラクションであるダンススペクタキュラーが始まろうとしている。今回の作品のテーマは“地獄”。幕が上がると、人々の目は主役の“地獄のルシファー”を踊るダンサーの姿に釘付けになり、その悪魔的な魅力の虜になる。そのダンサーはロシアから来たばかりだと紹介されるが、素性には謎めいた部分が多く、彼は“自分は地獄からの旅人だ”と言って人々をからかう。そして、その場に居合わせた、いつもスキャンダラスな話題を振り撒いて世間を騒がせる新進気鋭の振付家、ジャン=ポールに、自分の館を訪ねて来るようにと言い残して去って行く。
翌日、約束通り、深い森の奥にある城館を訪ねたジャン=ポールは、その館のただならぬ雰囲気と、昨夜のダンサーの神秘的な佇まいに当惑を覚える。彼はジャン=ポールに、自分の為に“地獄の舞踏会”という作品を創ってほしいと依頼する。そして、自分は地獄から人間界に現れた堕天使ルシファーだと告げる。ジャン=ポールは、目の前に起こっている出来事に半信半疑であるが、ルシファーと名乗るその男の踊る姿に次第に魅せられていく。彼の踊りを創りたいという芸術家としての野心を抑えることができないジャン=ポールは、ルシファーに誘われるままに、その仕事を引き受ける。
そして“地獄の舞踏会”のリハーサルが始まる。その作品に関わる様々な人々、踊り子、芸術家、パトロン、それぞれの人間の本能と欲望が、ルシファーの誘いによって赤裸々になっていく。他人を傷つけ、身勝手で、卑劣で、心弱い人間たち。
その人間の愚かさを冷笑し、人間を愛した神への呪いの言葉を放つルシファーであったが・・・・。堕天使ルシファー、彼こそ、かつては“光の天使”と呼ばれ、天上界で最も美しく神に愛された存在だったのだ。愛が憎しみに変わった時、その思いはどこに行くのか?深い孤独をかかえ人間界を彷徨うルシファーが、最後に見つけるものは・・・。(ちらしより)
<メインキャスト>
ルシファー(神によって地上に落とされた堕天使):朝海ひかる
リリス(輝かしい地位から転落した盲目のバレリーナ):舞風りら
ジャン=ポール・ドレ(新進気鋭の振付家):水夏希
ジュスティーヌ・ルブラン(ジャン=ポールの母、元オペラ座の伝説のエトワール):五峰亜季
エドモン・ド・レニエ(スランプに苦しむ音楽家):壮一帆
セバスチャン・ルグリ(敬虔なクリスチャンのピアニスト):音月桂
<感想>
「やはり『ファウスト』のアレンジで終わってしまった」
テーマは「人間というものは元来は心の温かさといった美徳を生まれ持った生き物であるが、つらい人生を乗り越えてゆくうちに堕落してしまう、いわば堕天使と同じようなものである」ということだろう。
初め「堕天使」という言葉がタイトルに含まれていると知ったとき、「ああ、『ファウスト』?」とすぐ連想できたし、実際チラシを読んでみると結末も予想されてしまって、予想したとおりの結末だった。「私はメフィストフェレスではない」とルシファーは言っているが、どうしても、ルシファー=メフィスト、ジャン=ポール=ファウスト博士、リリス=マルガレーテ、という構図が当てはまる。物語としてあまり面白みがなかった。(以前、『天使の微笑・悪魔の涙』89年、月組、という『ファウスト』を下敷きとした公演もあったことを付け加えておく)
全体として、すごく長く観劇していたような気がする。(隣の男性爆睡)ルシファーが人間を悪へ誘惑して人間が堕ちてゆくさまをあざ笑う暗い場面が多く、人間の本質に触れる、リリスとの場面ような明るい場面が少ないからであろうか、全体的に暗い感じがした。もう少しめりはりをつけてもらいたいところだ。
また、スター級にまんべんなく場面を与えたのはいいが、一方、ヒロインのリリスとの場面が少なく、これでサヨナラの主演コンビなのだから、もっとがっちり組んで欲しかったのもファン心理である。前作の星組の芝居がサヨナラの雰囲気万全だったので余計そう思うのかもしれない。最後になってやっと、ジャン=ポールの「覚えておいてやるよ」でサヨナラを意識する感じである。
個人的にはあまり好みの作品ではないが、全編を通して、植田景子先生ならではの美学があふれているのは演出家の個性を感じさせたし、2階席から見ていると、映像を上手く利用しているのが良く分かった。最近映像は多用されているが、あまり成功例がないのが現実のように思っているので。70点。
朝海ひかる。洗練された物腰といい、いつも人間から一歩はなれて傍観者であるところなど、「この世にあらぬもの」が本当に存在するような存在感があり、十分魅力的だった。数々のダンスもバレエをきちんとふまえた上での「魅せるダンス」であり、ダンサー朝海の最後には相応しい役だったとおもう。演技も骨太さで人間を嘲弄しあざ笑う一方、リリスには本当の自分の気持ちを教えられることで気持ちが揺らぐ、ふり幅が上手く表現されていたと思う。最後、ルシファーは今度は「光の天使」となって人間界に降りてくるのではないか、と思わせた。個性を十分見せてもらえて宝塚ファンとしては納得のサヨナラであった。
舞風りら。リリスはその名前に反して、まさに天使。兄のことを思い、母のことを思い、自分がどんなにつらい目にあっても神を信じる彼女は、むしろ神から愛されすぎたから多くの苦しみを背負ったかもしれない、と思わせた。舞風は目が見えないという設定なので動きが制限された演技の中で、リリスの清らかさ、温かさ、をよく表現したと思う。サヨナラとしては少し出番が少なすぎるような感じがするが、演技者として『Romance de Paris』から大きく変貌を遂げたと思う。最後の「光のパ・ドゥ・ドゥ」はダンサーとしての本領発揮だった。
水夏希。母親への反発し、スキャンダラスな生活を送る無頼漢だが、ルシファーに誘惑されることにより、どんどん人間の醜さを知ってゆくが、その一方で人間とはどうあるものか理解していき、最後にはリリスの死による母親との和解、と人物的な成長を遂げる2番手としてはこの上ない役である。水は前半のすかしたところ、ルシファーに誘惑されてどんどん他人の不幸を見てゆくようになるところ、後半の人間としての本質に気づくところなど、丁寧に演じており、一時のステレオタイプに頼ってしまう演技からほぼ脱却できたと思う。やはり課題は歌か。
五峰亜季。いわば現代風の母親である。愛した男の子供なのに、彼らが自分のキャリアを奪ったので愛せない。リリスの死による独白まではもう少し自己中心的であってもよかったかと思う。しかし、現実の現在日本に多くなって問題も引き起こす母親像が宝塚の舞台に出てくるのだな、とある意味現実に引き戻された。
壮一帆。プライドから初めは弟子の作品の盗作など躊躇するが、ルシファーの誘惑によってだんだん悪の道にはいっていく、しかし弟子の反発によって最後は弟子を殺してしまい、やっとその罪は自分にあるのだと気づく、この3つの部分がきちんとでておりよかったと思う。特に弟子の死体を抱きながら号泣するところは説得力があった。
音月桂。野心を抱いた恋人に誠意を尽くしても愛は戻らず、自分はかつてコンサートピアニストだったのだが、事故で負傷しても、神への尊敬は変わらない、という優しく、心の広いいわば「理想の男性」である。リリスについで天使に近い存在かもしれない。ただの2枚目にしあげず、イヴェットの愛に苦しみ、身を引くことを決めるところまで、人物としてきちんと仕上げた。
最後に才能があり、ルシファーによって、金・名誉・地位に野心を抱くようになる若いバレリーナのイヴェットの大月さゆが大劇場の初大役としては歌も聴かせて抜擢に応えた。
レビュー・アラベスク
『タランテラ!』
作・演出/荻田浩一
<解説>
“タランテラ”は毒蜘蛛の名前。その蜘蛛に咬まれた時、解毒の為に人々が踊ったとされる音楽・舞踏の名前がやはり“タランテラ”。或いは、蜘蛛の毒によって引き起こされるという「舞踏病」のことも、また“タランテラ”と言い表す。「舞踏病」は中世ヨーロッパに大流行した社会現象で、それは抑圧された民衆のパワーが暴走して吹き上げた狂乱であり、その混沌と熱狂はカーニヴァル的な祝祭空間となって時空を超越する。この作品は「舞踏病」をもたらす一匹の毒蜘蛛タランテラが、そのルーツを辿るように旅をする情景をつづっていく、情熱的かつ神秘的、そして生命力に溢れたレビューである。(ちらしより)
<感想>
「荻田先生のショーはまたしても感想が書きにくい」
全体として「毒蜘蛛が旅していくなかで、蜘蛛の毒に咬まれ踊らされた人や動物とからむ情景を描く」という主題が一貫してあるショーである。『バビロン』(02、星組)とよく似た印象を受けた。いわゆる場面ごとにカラーが違い、分かれている(もうひとついうと拍手するところがはっきりしている)ショーではなく、「荻田ワールド」全開であった。個人的は感想が書きにくいのでこういうショーは好きなほうではなくて、少なくとも『ロマンチカ宝塚04』くらいは場面の色分けがはっきりしていたほうが良かった。あと、中詰とフィナーレまであまり時間的にあいていないのもどうかと思う。
また、前の星組のショーが、いわば「こてこて宝塚」の場面場面がはっきりしたショーであったし、サヨナラを意識させる場面が多かったので、比較してしまうと、フィナーレ以外でももう少しサヨナラを意識させる構成のほうが良かったように思う。正直「わけがわからん」という団体さんもいたので70点。
荻田先生のショー、というとセットより衣装にお金を掛けているようで、ファンとしては綺麗なお衣装のほうがうれしいのだが、今回は上手く前の衣装も使いながら、やるべきところは豪華でよかった、といいたいところだが、2点不満がある。まず、娘役さんのパンツスタイルが多いこと。芝居と比較して、とのことだろうが、舞風りらには思い切りドレスを翻してもらいたかった。また、フィナーレの水夏希の羽根はあれではディナーショーであり、いくらなんでも2番手には貧相すぎると思った。
一方、いいと思ったことは、「スターに歌わせる」のではなく、「歌える人に歌わせる」というスタンスだ。今までソロを聴いたことがなくてもこんな上手い人がたくさん雪組にいるのだ、というのはうれしい発見であったし、専科の至宝・矢代鴻さん、雪組の誇る・美穂圭子、愛耀子、未来優希の4人は特に素晴らしかった。未来の歌がこれだけ本公演で聴けるのはうれしい。芝居にかてて加えてダンスが激しく、朝海ひかる・舞風が千秋楽まで無事に続けてくれることを望む。
第1場 プロローグ
神秘的な幕開けである。グループに分かれていて、プログラムを読まないと、それが何を意味しているのかはつかみづらい。
第2場 スパニッシュ
一転して典型的なスパニッシュで男役の格好良さを見せる場面である。朝海と水のダンスの違いが良く分かる。どちらもハイレベルのバレエの技術を持ちながら、優美さでおしてゆく朝海、一方大胆さとキレのよさでおす水と好対照だ。
第3場 間奏曲〜ラ・プラタ河
ここは舞風の蝶がまるで体重というものがないのでは、とおもわせるほど軽々と見えて素晴らしい。娘役のほうが目立つ場面。
第4場 ブエノスアイレス〜アムステルダム
一転してスーツ姿の男役の群舞となる。下級生のほうもがんばってソフト帽かぶって踊っているが、やはり前列の人たちのキャリアから生まれる男役のポーズは宝塚ならでは。街の女の舞風も先ほどの蝶とは一転してつやっぽい。
第5場 大西洋
セットはシンプルなのだが、一番スケールの大きさが感じられる場面だ。主演コンビのデュエット・ダンスはここが一番好きだ。
第6場 アマゾン
やっと中詰である。まず、水の歌から始まるのだが、正直、次の『エリザベート』が月組に引き続きビジュアル勝負にならないか心配だ。水は各場面で指輪・ネックレスなど他人とは違う目に付くものをつけるセンスがある人だけに。最後は壮一帆のソロで終わるのだが、スター性は十分なのだが、やはり彼女も歌唱が。壮は雪組でぐんと伸びた人なので、花組でここまで培った個性が埋没してしまわないように願う。
第7場 フィナーレ
ここは朝海の独壇場である。すべて彼女中心に動く。あの長い時間舞台に立ち続けるだけの精神力は恐れ入る。彼女が見守り、彼女を見送る。雪組の雪組らしさが溢れた場面でもある。定番のサヨナラの場面とは一味もふた味も違うが、たまにはこういうのもありか、と2回目はそう思ってみていた。
星組からサヨナラ公演が2作続いているわけだが、どちらが好みか、個人によってはっきり分かれるだろう。個人的には、修学旅行の受けも良かったので、星組のCS放送を待っている。さて、まだ次の宙組もサヨナラ公演だ。どうなるのだろう。
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