宙組大劇場「NEVER SAY GOODBYE」

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420. 宙組大劇場「NEVER SAY GOODBYE」

ユーザ名: 金子
日時: 2006/4/19(20:25)

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 サヨナラ公演に小池作品・・・・オリジナルでは『薔薇の封印』に続いてですが、やはり、大御所の先生にお願いしたほうがいいのかも・・・。でも、宙組のコーラスはたいしたものです。

宝塚大劇場 宙組公演
4月15日→1階21列51
4月18日→1階7列28・29(母と)

ミュージカル
「NEVER SAY GOODBYE」―ある愛の軌跡―
作・演出/小池修一郎

<解説>
 和央ようか率いる宙組のために、世界的なヒット・ミュージカル『ジキルとハイド』の作曲家である、ブロードウェイのフランク・ワイルドホーン氏が全曲書き下ろす新作ミュージカル。台本・作詞を担当する小池修一郎とワイルドホーン氏のワールドワイドなコラボレーションによる舞台。このような日米合作は宝塚歌劇では初めてのことであり、画期的な試みとなる。

 爛熟のハリウッドから、パリを経た人気カメラマンと女流作家の恋の逃避行。やがてファシズムと戦うスペイン内戦に巻き込まれ、平和を求める戦いに加わって行く。ヘミングウェイ、ロバート・キャパ、リリアン・ヘルマンといったロスト・ジェネレーションの芸術家たちをモデルに、平和を求め、ファシズムと戦った男女の愛の物語を描いた作品。愛が平和を築くことができるかを問う、強いメッセージ性を持った大作ミュージカル。また第92期初舞台生のお披露目公演となる。

 1936年ハリウッド、「カルメン」を下敷きにした新作映画「スペインの嵐」の製作発表パーティーが開かれる。主演スターのヘレン・パーカーや、エスカミリオ役の現役闘牛士ヴィンセント・ロメロが、居並ぶ。と、そこへ原作の戯曲を書いた社会派の新進劇作家キャサリン・マクレガーが現れ、自分の戯曲が改ざんされていると非難する。キャサリンはプロデューサーのマークたちを大喧嘩するが、そんな彼女の写真を撮る男が現れる。パリの風俗を撮影した写真集で一世を風靡しているカメラマンのジョルジュ・マルローその人であった。ジョルジュはヘレンの愛人としてハリウッドに滞在していた。キャサリンはフィルムを返せと言うがジョルジュは拒絶する。

 怒ったキャサリンは、マリブ・ビーチのジョルジュのアトリエまでフィルムを取り返しに行く。そこで見たジョルジュの未発表の写真の持つ社会性に、キャサリンは驚く。実はジョルジュはパリジャンではなく、ポーランド生まれのユダヤ人であり、母国の混乱を逃れパリに辿り着いたのだった。アメリカの知識人らしいキャサリンのものの見方を、ジョルジュは現実に即さない理想論だと諭す。キャサリンは、反発を超えて、ジョルジュに尊敬の念を抱いて行く。二人は、再会を約束して別れる。

 折からスペインでは、ナチス・ドイツのオリンピックに対抗して、バルセロナで人民オリンピックの開催準備が進んでいた。スペイン共和国の文化省のカレラスは、マークたちを開会式に招く。闘牛士のヴィンセントは、開会式に出場することとなり、興味を覚えたジョルジュは一同と共にバルセロナに赴く。

 開会式のリハーサルたけなわの時、突然、一部のファシストである軍人がクーデターを起こし、内戦が始まったことが伝えられる。人々がパニックに陥る中、オリンピックの中止が決定する。人民オリンピックを快く思わないナチス・ドイツが、裏で画策していたのだ。スペインの存続を掛けた戦いの火蓋が切られたことを知って、ジョルジュは、その行方を記録しようと計画する。一方、世界作家会議に出席する為スペインを訪れたキャサリンもバルセロナに入り、二人は再会する。

 ジョルジュは闘牛士を捨て、一人の民兵としてファシストとの戦いに参加するヴィンセントの取材を重ねる。人民委員のアギラールは、キャサリンに共和国側の宣伝を要請し、ジョルジュの写真も、世界中のメディアに発信される。風雲急を告げるバルセロナで、理想を実現しようとする二人の男女は、恋の炎を燃やし出す。しかし、内戦が呼び起こす歴史の渦は、二人を巻き込んで行く。 (ちらしより)

<メインキャスト>
ジョルジュ・マルロー(パリの風俗を撮影した写真集で一世を風靡したカメラマン):和央ようか
キャサリン・マクレガー(社会派の新進劇作家)/ペギー・マクレガー(キャサリンの孫):花總まり
ヴィンセント・ロメロ(闘牛士):大和悠河
フランシスコ・アギラール(オリンピアーダ組織委員会の宣伝部長、PSUCの幹部):遼河はるひ
エレン・パーカー(ハリウッドの女優):紫城るい

<感想>
「これは帝国劇場で上演されたらどうですか」

 初め、チラシを読んだときに(上を参照)「あー、スペイン内戦?ぴんとこないな」と感じた。家で『大辞林』などで調べてみたが、なにせ教科書に出てくる題材でないので、「ああ、一回目は早く行って、きちんとプログラムを読んでから観ないとだめだな」と思った。ところが、一回目は普段行かない11時公演だったせいか、とんでもないボンミスをしてしまって、座席に着いたのは開演5分前であった。正直「やばい」と思った。しかし、ストーリーに乗り遅れることなく、1幕は終わった。全体的にはあまりメジャーでない題材を上手く説明し、観客に分からせるようにしていると思う。それでも「難しい筋」という感は否めないと思うが。

 話題のワイルドホーン氏提供の楽曲だが、メロディラインに説得力があり、それに宙組の団結したコーラスが迫力を加える。ソロを持っている人はもちろんだが、3小節くらい歌うだけの人でもみな上手で、「宝塚の歌のレベルもたいしたものだ」と改めて思った。このコーラスが作品を押し切り、観客を作品世界に釣り込ませているといって過言ではないだろう。

 しかし、である。劇場では、特に前方では、コーラスの迫力に押されて家に帰ってきたものの、「フィナーレを除いて、戦争ばかり」という印象が強い。それは、題材がそれだから仕方ない、といわれればそうだが、宝塚の「きらびやかさ」「華麗さ」「エレガントさ」、そして「夢とロマン」があったのか、とこれから観る人に聞かれたら、首を振るしかない。1幕が終わったとき、「これは東京なら入る劇場を間違えて帝国劇場だった、といってもいいような。いや、帝国劇場で外部のミュージカル男優・女優でやっても1ヶ月ぐらいは持つかもしれない」と思った。もとい、ここは「宝塚歌劇を上演する」宝塚大劇場である。2回目の帰りに、「あんな、最後にちょっと羽根をしょって出てくるだけで、どこが宝塚やねん!」とかなりお怒りモードの団体客のおじさまが金子の前を歩いておられたが、これが観光客なら当然の感想だろう。

 どうも、最近の宝塚の作品を観ていると、いわゆる一般概念の「宝塚は女性ばかりが演ずる、レベルは低いが、お子様からご老人にまで、夢とロマンを与える劇団だ」という概念を打ち破ろうとして、「いや、宝塚のレベルは一般商業演劇となんら落ちないのだ、だから他の舞台と同じようなものが出来る」という演出家の先生の気概を感じる。確かにレベルはぐんと上がった。でも、「所詮、女性ばかりの劇団」なのである。このごろは、夢とロマンてんこもりの『ベルサイユのばら』もある一方、ラブロマンスより政治的メッセージのほうが先にでてしまう作品、やたら現実的な作品、挙句の果てはテーマがない作品、まで上演されている。まさに、「内戦状態」である。このまま突き進んで「限界」まで行くのか、それとも第一次『ベルばら』でなしえたように「原点回帰」するのか、道は2つに1つだと思う。中道などないことを、100周年を前にして、今一度考え直す次期に来ていると切に思う。

 本編の最後に主人公が死んで、彼の再生により幕、というのは小池作品によくある終わりかただし、フィナーレも短すぎる。また、フィナーレの女役さんの裾の長いスパニッシュのドレスをパレードでも裾を持ち上げたまま歩く、というのはあまり見栄えがよくない。75点。あとは人別に。

 和央ようか。とにかく、成熟した男性の魅力に満ち溢れている。それは、キャリアを積んだ男優のものではなく、「男役の型」を積み上げた芸の上に裏打ちされたものだ。歌も「台詞をメロディにのせて言う」ということがきちんとなっていて、「♪僕はデラシネ」など説明的な長い曲も余裕さえ感じさせた。集大成としては十分納得できるものだった。彼女は入団時から、恵まれた容姿と、その将来性を買われた人だったが、よくここまで劇団を引っ張る存在になってくれたと思う。また、主演男役になってからも、相手役の花總とのコンビは、宝塚の歴史に残る「名コンビ」になったし、2番手以下が流動的ななかで、よく芯として組を支えてくれたことには感謝したい。お疲れ様でした。一度ゆっくりしてください。「昭和が生んだ最後の大スター」とはあなたのことでしょう。

 花總まり。「こうあるべき」という思想を持ち、それに向かって行動を起こそうとする、意志の強い女性。言ってしまうと、宝塚のヒロインにはなりにくい「キツイ女」なのだが、「知的な女性」という面を前面にだしてヒロインとして確立させる芸は流石。他の人がやってはこうはならないだろう。彼女もその主演娘役にふさわしい容姿から早くに抜擢されて、5人もの相手役を務めたわけだが、その陰には地道な「努力」を惜しまない人だったからここまで出来たのだろう。そのまじめさには敬服する。まさに「宝塚の娘役の歴史に金字塔を打ち立てた」といっていいだろう。

 大和悠河。国のためには花形職業の闘牛士を捨てて戦う、という「男気のある」役である。前の大劇場公演と似たような役でやりやすそうに見えた。歌は苦戦した後がうかがえるが、「とにかく歌詞を伝える」という割り切りで今回はそれでいいと思う。それよりもなによりも、彼女がとにかく生き生きしてみえたことがよかった。このあと、主なメンバーは彼女以外、この組は全容を変えるが、新しく来たメンバーに「宙組はこういう組なのだ」ときちんと教えてくれるような頼もしさを感じた。

 遼河はるひ。人民を統制しようとして抑圧する、いわゆる「権力の権化」、悪役だ。この役が悪役として機能しないと困るのだが、ぎりぎりセーフだった。もう少し権力への執着心や、ギラギラとした野望、があるといいのだが。それよりも歌である。台詞のときの声と違いすぎる。ここを乗り越えないと月組でつらいかもしれない。

 紫城るい。享楽的で物質主義的ないかにもあの時代の映画スターの雰囲気は、最後キャサリンに「どろぼう!」と罵声を浴びせるまであった。しかし、今ひとつトップ女優の他人に何も譲らない、といった気位の高さ、みたいなものがあるといいと思った。男役出身なので、いろんな役をあてられる可能性がある人だと思う。

 全体的に、1階前方で観るのと、1階A席で観るのとでは、コーラスの迫力の差にびっくりした。ただ、2回観るのはいいや、という感じであった。


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