宙組大劇場「炎にくちづけを」「ネオ・ヴォヤージュ」

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372. 宙組大劇場「炎にくちづけを」「ネオ・ヴォヤージュ」

ユーザ名: 金子
日時: 2005/9/16(11:20)

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 こんにちは。皆さんは、他人にチケットを取ってもらったときは「有難う」って必ずおっしゃいますよね。私は5年間、ある人に1度も感謝されたことがなくて、とうとう仲たがいしました。簡単なことですが、チケットを取る苦労を分かってくれる人と共に観劇したいし、そういう方になら努力のしがいがあるのではないでしょうか。人間としてのマナーだと思います。

「炎にくちづけを」
「ネオ・ヴォヤージュ」
宙組 宝塚大劇場
9月8日→1階A席
9月15日→1階6列50

グランド・ロマンス
「炎にくちづけを」
―「イル・トロヴァトーレ」より―
脚本・演出:木村信司

<解説>
 原作はヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』。数奇な生まれの吟遊詩人が愛と復讐の渦の中、悲劇的な結末へと突き進んでゆく。
 物語は15世紀のスペイン。宮殿では不吉な噂が語られていた。今から20年前、先代の伯爵はあるジプシー女を火あぶりにした。その復讐のため、ジプシー女の娘アズチューナは伯爵の息子兄弟のうち弟を焼き殺した。アズチューナは捕まらなかった。また火あぶりにされたジプシー女の魂は、息子兄弟の兄ルーナ伯爵の治めるこの宮殿を今でも呪っていると。
 そんな折り、女官レオノーラを愛する吟遊詩人マンリーコは、ルーナ伯爵とレオノーラをめぐって対立する。ルーナ伯爵はマンリーコを卑しいジプシーの生まれと断じ、兵士たちを集めてマンリーコを殺そうとする。瀕死のマンリーコはピスカリア山中に逃げ込む。そこにはあのジプシー女の娘アズチューナがいた。マンリーコはアズチューナの息子だったのだ・・・・。(ちらしより)

<メインキャスト>
マンリーコ(吟遊詩人):和央ようか
レオノーラ(アリアフェリア宮殿の女官):花總まり
ルーナ伯爵(アリアフェリア宮殿に住む貴族):初風緑
パリア(ジプシー。マンリーコの幼馴染み):大和悠河
アズチューナ(ジプシー。マンリーコの母親):一樹千尋

<感想>
「このテーマでよく夏休みを乗り切ったな」

 この作品のテーマは「宗教(この場合はキリスト教)の名の元における差別・制裁の反対」ということである。それは「歌劇」の劇評にあるように、アメリカのイラク侵攻批判を暗示していることも良くわかった。個人的には、短い場面だが、残されたジプシー女たちの「子供たちよ生き残れ」は胸に熱く訴えかけられた。しかし、である。緞帳が下りたあと、マンリーコとレオノーラの悲恋はいったいなんだったのか、と思ってしまった。政治的メッセージが前に出て、悲劇的結末(=カタストロフィ)は後ろに隠れてしまっている。カタストロフィを観てカタルシス(平たく言うと、悲劇を観て精神を浄化すること)に浸っていてはいけないらしい。そうなると次のようにさえ疑問が起こるのである。

 その疑問とは「政治的メッセージを主張するための現代日本人による名作オペラのリメイクなら、なぜ宝塚でやる必要があるのか」ということである。外部の歌の上手い男女でやればいい話である。どうも、原作のある『Ernest in Love』を除いて、木村作品はこ難しい、政治色が強い作品が続いている。『王家に捧ぐ歌』までは我慢できたが、もうそろそろ勘弁していただきたい。一般の観客はもちろん、観光客が、宝塚歌劇で「ブッシュ反対!」といわれるとは思ってないだろう。もっと、夢とロマン溢れる作品はお願いできないだろうか。処女作『扉のこちら』はどこにいってしまったのだろう。たかが1ファンの金子だが、あえていいたい。「木村先生、この路線をおやりになりたいのなら、よその劇団でやってください。このまま続けられたら宝塚ファンは離れます」。来年は『ジュリアス・シーザー』より、だそうである。轟先生も出演されるし、政治的なことが主眼となりそうなのは必至だろう。

 1回目「開演5分前」のアナウンスが流れると、右のほうから「さあー、寝ようか」という声が聞こえた。左となりも上演中は舟をこいでいた。2回目も1階A席後方から飛行機や新幹線で膨らませて使う簡易枕をしゅーとへこませながら出てきた人がいた。どうも間延びするのである。その原因は歌の多さだと思う。同じく「歌劇」にあったように、「♪マンリーコの恋歌」はロイド・ウエバー調を思わせるスケールの大きい曲だが、あとは正直聞き入ってしまうほどの曲はない。だから、歌詞の主旨がわかると「あー、はいはい」となってしまい、間延びするのだ。やはり、ミュージカルなのだから、台詞のあとに歌い上げる、というかたちをとったほうがいいと思うし、曲数を減らして、20年前のこと、マンリーコとレオノーラの出会い、なぜマンリーコはジプシーの群れから出て行ったのか、仕官したところでジプシー出身なのにどうやって騎士になれたのか、吟遊詩人になっているのはルーナ伯爵を探るためか、といったつじつまあわせを台詞でしてほしかった。前の雪組公演『霧のミラノ』で台詞の美しさを聞くと、少し乱暴に聞こえるところや、台詞の価値、というものも考えていただきたく思ったのだが。50点。後は人別に。

 和央ようか。若者らしく、功名心にはやり群れを出ること、レオノーラへ一途な愛を求めるところ、そして状況に応じて意志の赴くままに行動するところ、などひたすら突っ走る感じでよかった。それよりも素晴らしいのは、多くのナンバーを完膚なきまま歌い上げること。さすが、5組の主演男役では一番のキャリアと実績を持つ人だ。なにをいうことがあろう。

 花總まり。15世紀の女性にしては、意志が強く、命を懸けてマンリーコを愛する女性。伯爵と取引したあと、20年前の事件に自分はかわいそうだと思った、そして毒を飲んでまでマンリーコを助けようとするも、その愛を疑われてしまう最期のシーンは見せ場だった。こちらも歌を含め完璧。歌舞伎の女形ではないが、「女が演じる女」の最高峰にいるといっていいだろう。

 初風緑。徹底した悪役で、主人公の敵役である。この間まで超紳士的なフランツをやっていた人とは思えないぐらい、憎たらしいし、嵌っていて快感すら覚える。その中でも、勝者の虚しさを歌う「♪三ヶ月」は聴かせられる。守備範囲の広い人なので、これからも「伊達に宝塚にながくいたんじゃないわよ」というところをみせて活躍していただきたい。

 大和悠河。人望があり、大胆で、死に様までも格好いい男。歌は「♪俺たちはジーザスが嫌いじゃない」はむしろこの芝居のメインテーマのように感じるが、迫力が今ひとつ。芝居はこのところ説得力が出てきたように思えるので、残るは歌か。

 一樹千尋。気は荒いのだが、自分の子供の変わりに焼き殺さなかった、伯爵の弟、マンリーコを自分の子供以上に、むしろ溺愛する母親。血のつながっていない子供をここまで愛せるのだろうか、と思うが母親の強さ、を感じさせる流石の出来だった。

 2回目は非常にいい席で観劇し、千秋楽も近いこともあって非常に出演者の気持ちが高まっていたように感じたが、やはりこのテーマでは客を呼ぶのは難しいなと思った次第である。

ショー
「ネオ・ヴォヤージュ」
作・演出:三木章雄

<解説>
 知的にも空間的にも時間的にも、様々な好奇心を満足させる、世界を巡る旅・・・・。美術館を見学する異国の若者の不思議な体験、自然の中から大都会へ出て行く一人の若者の成長、終着駅に見る男女の愛の終わり・・・・。
 スーパー・エクスプレス「フォルテシモ号」に乗り出発した出演者たちが、刺激と発見に満ちた、夢の旅を展開するバラエティーに富んだショー。(ちらしより)

<感想>
「芝居の重苦しさが少しは切り替えられるかな」

 基本的にはバラエティー・ショーだと思う。かなり、芝居の重苦しい気分からは解放される。ただ、4ブロックのうち2つが物語的で、特にプロローグが物語的というのは珍しい。昨年からの物語的ショーが多用されるのを観ているうちに、なぜ物語的場面が多用されるのか、気がついたことがある。
 
 それは「安全パイ」ということである。何に対してか、というと観客に対してである。物語的場面はどの年代の観客にも対応できる。例えば、中詰めのようなスタンダードジャズの名曲ともなるとさすがにお子様は曲を知ってないだろう。(かくいう金子は宝塚のショーで聞かされて、覚えて、気がついたら「ジャズ全集」ほとんど知っていた、という人間である。ある程度の知識欲があれば、かなり宝塚の曲で世界の名曲を知ることが出来るということはここで言っておきたい)だから多用されるのだろう。これも時流で仕方ないかな、と思うが、花組『エンター・ザ・レビュー』のようなスターの個性勝負の純然たるバラエティー・ショーもいいような感じがする。

 あと、ここからは希望・要望のところになってしまうが、芝居でほとんど衣装変えがなかっただけに、もう少しブロックを細かく増やして、目先の変化をいろいろつけさせてもらいたかった。それと最後のブロックの燕尾(今回は変り燕尾だが)の総踊りと、デュエットダンスだが、これは宝塚の「売り」であるから、だから余計にこれほど長々とやる必要はなかったのではないか、と思う。ある大衆演劇の有名女形さんが、あるときテレビで「いいところはちょっとやるからいいんですよ。長々とやっていたら価値がなくなる」といわれていたのを思い出した。もう少し時間を削って、サヨナラなのだから、初風緑の銀橋のソロの間奏曲でも作ったほうがよかったのではないか、と思う。85点。

第1景 ニュー・ヴォヤージュ
 上に少しかいたが、今までにあまりない始まり方である。それでも真ん中にカリブの場面を入れてショーのプロローグとして盛り上げてあった。ここは、観る人の感性によるだろう。「これもありかな」というところ。

第2景 リバー・ランズ・フリー〜川の流れのように〜
 始めのハロウィンのところの落ちはちょっと分かりにくいが、「♪アイ・ガット・リズム」から、アステアメドレーまでジャズのスタンダードでつづられる、ショーの中詰めらしい展開。最後は全員のタップダンスで往年のミュージカル映画の感覚。曲を知っている人間としては一番落ち着ける場面である。タップは流石に全員でやると迫力がある。これぞ、ライブ!という感じがする場面でもある。

第3景 フォルテシモ!〜海の上のピアニスト〜
 イギリスに出てきたピアノマンは結局狂言だったが、人々はこのショーの場面のような人生を期待していたのだろうな、と観ながら思っていた。いろいろな国を渡り歩き、たくさんの人に翻弄され、というところである。大和悠河もかなりがんばっているが、赤いドレスの紫城るいが花總まりにない魅力のダンスを踊るのが目に付いた。

第4景 ファイナル・ヴォヤージュ〜宙へ〜
 ここは、和央ようかの「芯の力」が大きい。これだけ上級生になっても踊れて、2枚目なのは、初めて宝塚を観る人には安心して勧められるこの組の魅力だ。銀橋での花總の不安げな表情から笑顔もいい。男役の魅力が堪能できるが、上にかいたように長すぎるのが難か。
 最後のエトワールの初風の歌はなにかふわりとした感じで、むしろそれが胸に入ってきた。


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