[掲示板: ミュージカル一般 -- 時刻: 2024/11/29(02:55)]
------------------------------
こんにちは。今年最後の演目のバウホールへ行ってきました。正直、大和悠河がよかっただけに、東京がないのは惜しいなあ・・と。
宙組 宝塚バウホール
10月31日 は 27
Musical
「THE LAST PARTY」
S,Fitzgerald´s last day
−フィッツジェラルド最後の一日
作・演出/植田景子
<解説>
第一次大戦後のアメリカに、ロストジェネレーションの象徴として波乱の人生を送る運命を背負い、夢と挫折の中でひたすら光を追い続けた作家、スコット・フィッツジェラルドの物語。
1940年12月21日、ハリウッドのアパートメントの一室。フィッツジェラルドが心臓発作のため急死。一夜にして時代の寵児となり、栄光に包まれたローリング20´sの華やかな日々は、もはや過去の夢となり、経済的にも社会的にも不遇なまま突然に訪れた、それは淋しすぎる最期だった・・・・。
クリスマス前、寒さの厳しい朝。自分の心臓が危険な状態であることを感じつつ、書きかけの小説の原稿を前にしたスコットは、言い知れぬ感情に襲われる。彼は知っていたのだろうか?自分の人生があと数時間で終わるということを・・・・。
彼の脳裏に人生の様々な光景が浮かんでくる。激しく生き、そして愛した日々。華やかな愛と夢に彩られ、そして孤独に満ちた、フィッツジェラルド人生最後のパーティーの幕が開く。(ちらしより)
<メインキャスト> (プログラムから抜粋)
スコット・フイッツジェラルド(1920年代のアメリカ文壇に華々しく登場した小説家):大和悠河
ゼルダ・フイッツジェラルド(スコットの妻。彼の小説のモデルとなるフラッパーガール):彩乃かなみ
シーラ・グレアム(スコットの晩年の愛人・ハリウッドのジャーナリスト):五峰亜季
マックスウェル・パーキンズ〔マックス〕(スクリブナーズ社の編集長。スコットをデビューさせ最後まで真摯に面倒を見る。仕事に情熱を燃やす出版界の大物):美郷真也
アーネスト・ヘミングウェイ(20世紀を代表する小説家):遼河はるひ
<感想>
「人生を小説にしてしまった男の一生」
いつもは悩む、上の書き出しだが、今回は一幕が終わったとたんこう思った。
「小説のような人生」というのは言い換えれば「波乱万丈の人生」ということになるだろう。この悲劇的な人生のミュージカルを通してわれわれ観衆に与えられているテーマは「波乱万丈の人生より平凡な人生のほうが、小さなことからはじまって幸せなものなのだ」ということだろう。
しかし、「小説のような人生」というのは、われわれ一般人からは興味をもたれるが、理解されにくい、という現実がある。なぜなら波乱万丈の人生などテレビでそういう番組があるが、そうそう送れるものではないし、また望んでそうなれるものではないからだ。終演後、ロビーで「わからん」と言っていた人はそういうことだろう。だから、「筋はわかったけど心情を理解できない人」90%、「共感できる人」9%、「理解できる人=自分が波乱万丈の人生を送った経験がある人」1%、となるだろう。ここにまた悲劇が転がっているような気がしてならなかった。
ある意味「むつかしい芝居」「うっとうしい芝居」で終わってしまうミュージカルかもしれない。このあと月組で続演されるが、テーマが重いだけに、出演者目当てでないと行きにくいかも知れない。しかし、深遠なテーマに真正面から取り組んだスタッフ・出演者は立派だと思う。また、植田景子先生のシンプルにして雄弁な台詞も心に残る。もちろん金子は月組も行く予定。
出演者は少人数、小編成のバンド、簡素なセット、と小劇場さながらのスタイルで、改めてバウホールのあるべき姿を示唆された感じだ。
ただ、上のキャストのところには書いていないが、スコットの前に「YAMATO」といった、芸名の一部の役名が全員についていて、これは一幕では大和の「俺はスコットを演じる役者だ」というところしか使われないのでどういうことかな、と思ったら、二幕のエピローグに全員がその後のスコットの評価や、その役のその後の人生を語るのだが、それのために必要なのか、とわかった。ちょっとした劇中劇であるが、個人的にはエピローグはその役の人が回想する形で語ればいいし、一幕の「俺は〜」もはずしてしまって、当時の時空間のままでやったほうがすっきりすると思った。
かなり深刻に考えなければならない芝居だし、観ていても重いのだが、考えさせられる芝居がここのところなかったので、80点というところか。あとは人別に。
大和悠河。お稽古の様子をCS放送で見たのだが、「これはいけるのではないか」と思った。役に投入している感じだったし、「上級生になったな」という感じがして頼もしく見えた。で、舞台であるが、出ずっぱりの熱演で今までの彼女の役では最高だな、と思った。作家も役者も「無」から作り出すところに共通点があるからだろうか、稽古場同様とても入れ込んで頼もしく見えた。初めの華々しく登場するところ、仕事も家庭も上手くいかなくてアル中になりしらふで話すことが出来なくなる堕落ぶり、娘に対してのよきパパぶり、そして最後に身を削って執筆するところ、衣装もそう変えないのに観ていて切なくなった。スコットという人は、初めは小説のような華麗な人生が送れるものの、だんだん小説が売れなくなって現実を認めなくてはならないのに、小説のような人生のままでいたい、それから決別することを認めたくないから酒に走り、最後は自殺しない限り、身を削って書くことしか「自分の人生」は続かない、という人である。このドラマティクな、そして哀しい人生を上手く芝居に乗せてやっていたと思う。とうとう大和が入団時によく言われた「天海祐希の再来」から自分の境地を開いた、と実感した。
彩乃かなみ。ゼルダに対しては、今までは「当時の最高のモダンガール」というイメージが強かったのだが、今回は、本能のまま刹那的に生きてきたゼルダが、結婚後、常に夫の小説のモデルでいることを強いられ、精神的に追い詰められてしまい、自殺未遂に走る、彼女の寂しさが良くわかった。彼女の「私を追い詰めないで!」という台詞は個人的には一番胸に残った。彩乃は地声を使って、始めのフラッパーガールとだんだん寂しくなっていき、最後は自分を見失う、というところの経過が良くわかる演技だった。『華麗なるギャツビー』のテイジーのような、スコットの小説のヒロインでは生きられなかった、そしてスコットよりあとに悲しい最期を遂げる1人の女の哀しい一生が示されていた。これもまた好演。
五峰亜季。小さいときになりたいものは「お母さん」と言った、晩年のスコットを母性愛のような大きな包容力で見守る女性を、もう余裕を持って演じていた。彼女はこういう「いい女」の役が似合う。
美郷真也。スコットを出来る限り面倒を見ようとする温かい人柄と、最後にスコットのために彼の借金の依頼を断る断腸の思いの言葉の対比が効いていて、流石今回の宙組の最上級生、ぬかりはない。
遼河はるひ。スコットと文体もプライベートもまったく対照的なヘミングウェイ役で、出番はそうないが、スコットを批判するところは、背が高いので見下すようで効果的だったし、その作品のように地面にしっかり足をつけている、という感じがよくした。
あと、スコットの娘役の咲花杏がかわいく、清涼剤になっていた。
以上、いろいろ書いてきたが、日本青年館でなくとも、もう少しキャパシティの小さい劇場を借りて東京公演をやる魅力のある作品だと思うし、『華麗なるギャツビー』の再演もお願いしたいな、と思って劇場を後にした次第である。
<金子のコラム>
今回のテーマは「貸切公演」。
このバウホールも貸切であったが、まず申し込んだのはいいが座席は会社にお任せなので、チケットが来ると大げさだが一喜一憂する。例えば「8枚までOK」の場合に1枚、と申し込むとかなりの確率で端席がくる。ドラマシティ貸切で4回連続端席が来て懲りてしまい、それ以後は劇場会員枠で少々後ろでもセンターを狙っている。
もうひとつ、大劇場の場合だが、「お楽しみ抽選会」なるものがある。一度もなにも当たったことはないが、先日、星組大劇場の某カード会社の貸切の1等賞は「湖月わたるに花束贈呈権利」であった。さすがにこれはいやだな、と思ったのだがその日は当たった方が名乗り出て贈呈、と相成った。「生涯の晴れ舞台です」とその方はおっしゃっていたが、私なら辞退する。こんな超一般人、スターの横に立ったら見られたものではないだろう。この企画、みんな名乗り出られるのだろうか、と疑問に思いつつ劇場を後にしたのである。やはり、3等とかで直筆サイン色紙が一番うれしいな、と思う。
▼リプライ